2012年12月04日

さようなら

彼と出会ったのは
おいらが小学生の時だった
彼は無線をやっていて、黒森山(通称ボンズ山)に
新車のGTOで行くと言うのでついて行き
その帰りに事故って廃車にしたと言う出会いだった
事故った時、彼は一番最初に私たちを気遣った
それが、彼との出会いだった。
JR7CWPが彼のコールだったと記憶している。
当時小学生の私はボウズ頭で
彼は本物の坊主でボウス頭
ボンズ山に行って事故るって恐ろしい出会いだと思いません?
その二年後
今度はボーイスカウトを作るからと誘いがあった。
彼は青森4団14団を経て無くなったボーイスカウトの復活を願っていた
私は14団だったので、少なからず協力をしようと隊付と言う立場で参加した。
その後ボーイスカウトは子供が居なくなって自然消滅したのだが
大学を終えて帰ってきたら
友人が青年会議所に入れと誘いに来た
「そんな訳の分からない団体に入りたくない」というと
彼が出てきて
「訳が解るか解らないか、やるもしないでグダグダ言うな」
「やって駄目だったら辞めれば良いだろう」と言われて入会し
二十年近くもお世話になった。
JCでは彼と共に色んなところへ行った
北海道東北研修委員会委員長だった彼に着いて沖縄まで研修で行ったり
青森ブロックアカデミー学長だった時はセクレタリーとして
同伴していた。
彼が黒石正調ねぷた囃子保存会を作ろうと言い出したときも
私はそばにいて、いちいち納得して発会に協力した
黒石ジャズクラブを作ろうとしたときも彼に会長をお願いして
大野えりさんのライブを行なったりしてた
ジャズマンを泊める場所がないので彼の寺に泊めていただき
「死んだら法福寺」って相言葉は最近まで使われていた
思い出なんていくらでもある
彼の子供たちより長く付き合わせて頂いたのだから・・・
南部町で仕事をするようになってから
囃子にも参加できなくなったし
なかなか逢える機会は少なくなったけれど
彼は今でも私の心の中に生きている

いろんな事を教えてくれた
そりゃ長い付き合いだもの、お互いの意地がぶつかったときもあったさ
でもね
おらたちは分かり会えていた。

亡くなりそうだとメールが来たとき
御子息に電話をした
おらはやせ細った彼を見たくないから行かないって
その二日後
彼は息を引き取った

30日に通夜があると言われたが
仕事を投げてまで行くことを、きっと彼は良しとしない。

どうして来ないの?と
何人からもメールを頂いたが
返事すら出来なかった。

何をどう言っても言い訳になる。

一番最初に行きたかったさ

でも・・・

明日午後青森で打ち合わせがある。
明後日は社長にお願いして休みを頂いた

明後日は貴方に会える



キチンと

さよならを言って来ます。

そして

貴方と知り合えて楽しい人生だったと
posted by 真鯛様 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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